記者の本棚 星野道夫『旅をする木』

 冬物のコートをタンスから出す時期になると、毎年読みたくなる本がある。星野道夫の「旅をする木」だ。彼はアラスカに生きた日本人の写真家で、多くのエッセーをのこした。この本はそれらの中でも代表的な作品だ。

 冬になると読みたくなるのは、冬の肌寒さを感じると彼の文章から伝わってくるアラスカの澄んだ冷たい空気を思い出すからだろうか。日本からは遠く離れたアラスカについて書かれたものであるのにもかかわらず、私たちが日本で感じるのと同じような感覚が、彼の文章には含まれている。

 

「頰を撫でてゆく風の感触も甘く、季節がかわってゆこうとしていることがよくわかります。アラスカに暮らし始めて十五年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化していくこの土地の季節感が好きです。」 

 星野道夫は高校生の頃、エスキモーの村を空撮した一枚の写真に魅了され、その村の村長に手紙まで出してしまった。その返事が来たのは半年後で、大学生になった彼はその村を訪ねエスキモーの家族のもとに滞在する。その後アラスカで生き続けるために写真家という職業を選択し、家族とともにアラスカに移住までしてしまう。そんな彼は、慶應義塾高校、そして慶應義塾大学の経済学部の出身でもある。1996年に急逝してしまうものの、亡くなった後でも彼の遺した写真や文章は、人々の心に静かな感動を与え続けている。

 「旅をする木」で星野が書いたのは、彼の身の回りに起こって体験したこと、そして彼の身の回りにいる友人や家族のことにすぎない。まるで自らの縄張りにある大切な宝物を一つ一つ紹介するように、丁寧に綴られている。その文体は、読む人にも彼が感じているものと近い感情を与え、彼の感じた充足感をたどらせることができる。

「人間の気持ちとは可笑 (おか) しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅はかさで、人は生きてゆけるのでしょう。」

 日常のふとした瞬間に感じる、ひんやりと澄んだ冬の空気の匂いや、生暖かい風にのって鼻腔に運ばれてくる春の花の香り。私たちは、そうした些細な季節の変化、五感を楽しませてくれるものによって楽しみを得て生きているのかも知れない。

 自然が五感を通して私たちの心に与えれくれる喜び、そして、人との交わりを通して私たちが感じる喜びについて、もう少し考えてみても良いのではないだろうか。どれほどテクノロジーが発達し、人と人とがスクリーンで会話できるようになっても、私たちの心が欲しているのは五感を通して訴えかける自然もしくは人の暖かさ、それらが与えてくれる充足感なのではないだろうか。

 寒くて外に出る気になれない時、この本を読んでみてほしい。きっと、曇った窓の外の人々の営みが、当たり前と思っていた家族との会話が、あなたの心に喜びの種を与えてくれていたのだと気がつくだろう。