気品の泉源、智徳の模範

慶應義塾の創立者、福澤諭吉。誰もが知っている日本を代表する思想家である。福澤は生前、多くの著書を残した。しかし今回は、福澤の著書ではないが、演説文を取り上げてみる。1896年11月1日、故老生懐旧会という一つの同窓会の集会のなかで演説した内容。そこでの福澤の演説文は新聞の社説に掲載され、後に福澤諭吉著作集にも掲載された。慶應義塾の門下生たちに対して、福澤が思いの丈を綴っている。

福澤諭吉の信念

この演説は、慶應義塾の設立の由来について語られている。慶應義塾が設立された当時、日本は王政維新(明治維新)の戦争が繰り広げられていた。学問をする人は少なく、洋学を学ぶ人などほとんどいなかった。加えて、尊皇攘夷の思想が広まり、洋学者は外道とされ、身の危険が及ぶほどであった。そんななか、福澤は慶應義塾を設立した。演説文にはこうある。

些少も仮す所なく、満天下を敵にするの覚悟を以て自から居たるこそ一時の奇なれ。                  

批判などはものともせずに、すべてを敵にしてでも洋学を広めることをやめない決意が福澤にはあったのだろう。演説文を読み進めていくとその理由のようなものが述べてある。

人間の居家処世より立国に至るまで、文明の大義を捨てゝ他に拠るべきものなきを信じて、・・・人生の獣勇、闘争を好むの情に出たることならんと、今より回想して自から悟る所なり。                                     

福澤は著書『学問のすゝめ』の中で、学問を修めることが文明を発達させ、文明が人々の生活を生き生きとさせるというような旨を述べている。洋学を捨てることは文明を捨てることと同じように解釈し、洋学を広めることを使命のように感じている。一方、闘争を好む気持ちもあったと回想している。福澤は周りに影響されずに我が道を行くような、信念を貫く男だったのかもしれない。

唯一の洋学塾だった、慶應義塾

福澤は、闘争を好む気持ちがあったからこそ、洋学を広めようとすることができたと思っているようだ。

この獣勇、決して無益ならず。・・・四面暗黒の世の中に独り文明の炬火を点じて方向を示し、百難を冒して唯前進するのみ。                         

この表現からも福澤が信念を持って周りをそこまで気にしていない様子がわかる。自分一人でも洋学を広めていこうとしている。当時は、政府が変わったことにより、幕府の洋学校をはじめ、洋学を教えるところはなくなっていた。その時に設立されたのが慶應義塾であった。

洋学と云えば日本国中唯一処の慶應義塾、・・・世人は之を目して孤立と云うも、我れは自負して独立と称し、・・・。                            

唯一の洋学塾ということをわかっていながら、それを誇りとするかのような振る舞いである。このあとには慶應義塾がしてきたことが綴られている。特に経済、脩身(道徳のようなもの)、哲学に関しての洋学書に着手しつつ、翻訳等もしていた。最善を尽くし、文明の発達による日本社会の改善をしようとし、実際に文明が進歩していった。文明を発達させたのは慶應義塾だけが努力したからというわけではなく、日本国民にその気質があったからなのだと福澤は思っているようだ。慶應義塾のしたことは小さなことかもしれないが、そこに誇りを持っている福澤である。

慶應義塾の目的

勉強辛苦は誠に辛苦なりしかども、首を回らして世上を窺い、文明の風光次第に明にして次第に佳境に入るを見るは、畢生の大快楽事にして譬えんに物なし。苦中楽ありとは即是れなり。                                       

この一言から、福澤も勉学を修めることの難しさ、大変さをよくわかっていたということがわかる。しかしながら、文明が進歩していくことを見ながら喜びを感じていた。畢生の大快楽事とまで言っている。どれほど福澤が日本文明の発展を願っていたのだろうか。文明が発達する過程を思うと感極まって涙するくらい、切実な福澤であった。苦しい中にも楽しさがあるのだということを伝えてくれている。財政面で十分な学問を学ぶ環境を準備できていないことに嘆いているような場面もある。ここからは少し話題が変わって、気品ということについて福澤は述べている。

教場の学事は殆んど器械的の仕事にして、僅に銭あれば以て意の如くすべしと雖も、我党の士に於て特に重んずる所は人生の気品に在り。                    

福澤が学問よりも気品を重要視していたことがわかる。福澤は気品について次のように考えている。
・気品というものは法律などによって善悪の基準を決めるのはとても難しい。
・しかし、気品がない人は、技術、能力に拘わらず、君子(人格者)とはなれないというのが一般的である。
慶應義塾を設立した当時の同志たちは年を取り、次々とこの世を去っていった。福澤はこの考えの基、同志が世を去る姿を見て、いかにしてこれから慶應義塾で学ぶ若者たちに、気品を維持しようかと悩みつつ、維持することが福澤自身の責任であると感じている。

演説文は、この一節で締めくくられる。

慶應義塾を単に一処の学塾として甘んずるを得ず。その目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言うのみに非ず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを期する者なれば、今日この席の好機会に恰も遺言の如くにして之を諸君に嘱託するものなり。        

これは慶應義塾の目的とも言われている一節だ。気品を維持したい福澤が、遺言のように残している。慶應義塾で学ぶ者たちに気品を維持し、全社会の先導者として立ち上がってほしいという願いが込められている。

慶應義塾で学ぶ者、それは私たちである。私たちにはこのような期待が掛けられていたのだ。このような福澤の期待を、頭の片隅にでも入れておくのはいかがだろうか。

 

参考
福澤諭吉 〔気品の泉源、智徳の模範〕 – 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/50266_69734.html