1972年12月15日発行 創刊号より
中村勝範先生が、中村菊男先生を紹介
中村勝範先生は、慶應義塾大学を受験したとき、試験用紙に氏名を書き忘れたことを注意されてもショックを受けなかったことを思い出しています。
ショックを受けなかったのは慾がなかったからだけなのだろうか。ほんとうは、ミスをとがめるようなところが短い言葉のどこにもなかったこと、とがめるどころか緊張しているであろう受験生をすこしでも刺戟しないで、しかし注意すべきことは注意しておかなくてはという万全の配慮がそこにあっ たから私にショックをおこさせなかったのではなかろうか。
四十三年の人生のなかで、とがめるところのない柔らかい注意を受けたことはこの一回だけしかいまのところない。
「はじめ!」という声をきいたときは、注意されたことなとありはしなかったかのような平静さでつぎのテストにかかれた。そして、やがて私はこのことを跡かたもなく忘れてしまった。こんなにすばらしい忘却は、わが人生に二度とない。人間関係がこんな忘却のなかで、もし送れたら人生はなんと傷つくことのない、柔和なことであるか。
合格し、塾生となった。四年がたち卒業し、その上に二年間の大学院を過し終えた。そして何年たったことであろうか。私はすでに家庭をもつ身になっていた。
そんな定かでない、ある日、あの受験のことをふと思い出した。答案用紙へ名前と番号を書かなかったことである。そして驚愕した。
忘却のなかから忽然とあらわれた記憶に驚いたのではなかった。もちろん多少は、なぜいまごろになってこんなことが思い出されるのか、そのことに驚かぬことはない。しかし、この時の驚きは、そんななまやさしいものではないのであった。
十年以上の年月がたって、あのとき、名前と番号を書きおとしていたことを、ぬくもりのある柔らかい言葉でそそいでくださったのは-そうだ、それは「注意する」という文字からうける、きついものではなく、「そそぐ」といった方がぴったりする-いま私の恩師となっている中村菊男教授ではないか。
受験生の心に、微塵ほども負担をかけないような言葉をそそいだ監督者は、私の心に微粒子ほどの面影も残さなかったようにみえる。それが十年以上も過ぎて、十年の歳月の経過によって焙り出されてきたかのごとくに、わが胸によみがえってきたのである。
この蘇生からまた十年がすぎた。しかし、いまだに私はこのことを誰にも、そして恩師にすら話していない。
心のうちに湧いた感謝は、ただちに言葉や態度にあらわした方が素直でいいということが、不器用な私にも、ようやくわかるようになった。しかし、いまさら口にだして、おしゃべりでもしたら、四十三年間、口数すくなく、たまたま話をしても「単語」でしか話すことができないという自分がくずれてしまうような気がするのである。
邂逅とは不思議なものである。
大学受験の時点で恩師の中村菊男先生に出会っていた中村勝範先生。このエピソードを通して、中村菊男先生の優しさを感じますね。