創刊当時の思い出 ~歴代編集長より①~

 創刊が1972年12月15日号なので、ほぼ半世紀前になる。当時助けていただいた先生方や諸先輩は鬼籍に入られた方が多い。誠に思い返すも夢のような歳月の流れである。1972年はベトナム戦争の最中であり、それを解決するための方策としてのニクソン大統領訪中、それに続いて激しい批判を浴びながらの田中首相訪中があった。大学界においては1968年から1969年にかけて東大闘争が全国を震撼させ、名だたる大学が殆ど紛争に明け暮れるありさまだった。「慶應キャンパス」創刊直前の1972年11月8日に早稲田大学において核マルが文学部学生の川口大三郎君を死に至らしめるという痛ましい事件が起こっていた。

 歴史ある三田新聞は当時殆ど発行が途絶えていた。慶應義塾新聞は過激派のアジビラ同然だった。出発当初は多くの期待を集めていた塾生新聞も当時の塾の紛争に影響されてか自治会のストライキや扇動を肯定するような記事に堕していた。心ある塾生、教員、塾員の声を代弁する新聞がないというのが偽らざる塾内の状況であった。ごく少数の者が大学を占拠し、学費値上げ反対を旗印に、学内を荒らし放題に破壊する暴力的行為を大多数の者たちが黙って見ているだけでいいのか。そのような義憤に駆られて無力を顧みずドン・キホーテのように立ち上がって戦いに挑んだのが「慶應キャンパス」の出発であった。

 最初にお願いに上がったのが当時サルトルの研究者として著名な白井浩司教授だった。かつてフランス語の授業を受けて信頼されていたようで君がやるなら一緒にやろうと快諾してくださった。のちに塾長になる石川忠雄教授からは生田正輝先生を紹介して頂き、先生から主だった先輩方を紹介して頂いたことが新聞刊行に大きく役立った。感謝してやまない次第である。経済学部長を務められた気賀健三先生、村松暎先生、中村菊男先生、中村勝範先生、池井優先生、松本三郎先生。名前を挙げればきりがない。本当にお世話になり、お礼の言葉もない。とりわけ思い出深いのは当時ブリジストンタイヤの常務をされていた石井公一郎先輩である。初対面から意気投合し、その後全面的に協力して頂いたことは有難くも忘れ難い思い出である。

 力不足ながら「慶應キャンパス」の発刊は当時の心ある塾生、教員、塾員の支持を得て、塾の紛争解決になにがしかの貢献ができたのではないかと感じている次第である。この度当時の新聞をそのままにネットで閲覧できるようにし、また後輩によって10年ほど途絶えていた新聞を復刊しようとする動きがあることは望外の喜びである。塾生諸君は勿論、在塾の時期は違っても塾員にとっても己の青春の若き血を燃やした一時期が紙面によって澎湃と蘇ってくるのではないだろうか。「慶應キャンパス」の再出発に皆様の暖かい声援をお願いする次第である。

 

細谷文雄(文学部卒)